お気づきの通り、私の関心空間はおおよそ躁病相の所産といっていい
ところが8月末から急転直下、約10年前の発病時以来の大沈殿
カイシャも休みがちになり、主治医からは久々に休職も打診された
「もういい、休んじまえ」という声
躁転時ならともかく「ここで休んだらもうオシマイ」な予感
首の皮1枚で踏みとどまる
伝家の宝刀「リチウム電池」は、腎臓への副作用で使用中止
通院も今までと違い毎週、
代替の安定剤役を期待し、統合失調症用の各種向精神薬に変えては様子見、
量を増やしては効果を窺うも変化なし
当然、週末は完全引きこもり・・・
思い起こし悔やむのは、躁病相時に浮かれ、しでかしたアレコレ、
その時には自覚があるつもりでも、振り返ればないのだから始末に負えぬ
毎度のこととはいえ
私が失ってきたこの10年は決して小さなものではなく、
後悔と劣等感に苛まれ、時として絶望にすら至る
死を宣告されたわけでもないのに
私の場合、躁でも鬱でもない「安定期」を得られない
「自分らしさ」といものがあるとすれば、それを取り戻せない訳だ
落ち込みながら、攻撃的になるといった「混合期」はあっても
ついに主治医は(躁転を怖れ)封じてた各種抗鬱剤の再開に踏み切り、
最悪の状態は脱してきたのかも、と思えるようになった
例えば、こんな光景に出合ったとする
「逆光の朝日でまっ黄色に透かされた銀杏の葉」
・・・何も感じない
とはいえ、以前はそれにさえ気づかなかった訳だから改善か
HDDレコーダーに溜め込んでいた番組も観つくし、
しかたないので散歩がてら、レンタル漁りにTSUTAYAへ行くまでには回復
その後また家に耽るのは変わらないけど
それにしても地元のしけた店には、なかなか面白い在庫がないのは痛い、
が想像力を必要とする本と違い、完全受け身でも「その時間だけ」は我を忘れさせてくれる
それが刹那の救い
永遠の救いがやってくるまでは
--
往んで患え!
「もうオウチにお帰りになり、病が辛いでしょうから床についてお休みくださいませ」
とでもいったとこであろうか、実に相手のことを慮った悪態である
西の出身で、ある程度年齢のいった方なら聞き覚えがあるのではないかしらん
家人が子供の頃、正月恒例の「花札大会」でみな熱くなってくると、
花札をきりながら、この「コトバ」とともにマッチ棒が飛び交ったという(笑)